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B氏に捧ぐ

2004年02月01日更新 フィクション08 「B氏に捧ぐ」


カツオの刺身は美味しい・・・本当に旨いと思う。
M氏は、ニンニク醤油と生姜醤油を一切れ毎交互につけてはせっせと口に放り込んだ。
1年中食べる事ができるが、やはり時期的には春の‘初カツオ’と秋の‘戻りカツオ’だ。
一般的に言えば2月頃から太平洋を北上する‘初カツオ(上りカツオ)’を旬とするようだが
脂の乗った‘戻りカツオ(下りカツオ)’もまた旬なり、だ。

ふっと箸を止め、目線をテレビに転ずれば保守系政治家H元代議士の政界引退を報じていた。
(そういえば、Bさんも好きだったな・・・カツオ)

B氏はその昔、大物と呼ばれた故A代議士の地元秘書を務め、先生が引退された後
H元代議士の地元秘書に転じた人だ。
M氏の実母の友人で、初めて紹介されたのは、25年以上も前になるが今では故人。
他界してもう数年が経過している・・・良い人だった。

もう過去の事だが、M氏が実家に帰れば必ず飲みに誘ってくれた、しかも説教付きで。
説教と言っても詰ったり暴言を吐くような人ではなかった。
生半可な左翼的思想のM氏は彼に論戦を挑んだがいつも負けた。その時、B氏は
「おまえは社会主義者だな」と微笑みながら言うのが口癖だった。

誤解の無いように説明するが、彼のここで言う‘社会主義者’とは‘まだまだ詰めが甘いな’とか
‘まだおまえはヒヨコだな’と言う意味が全ての‘洒落’・・・冗談なのだ。

(彼がもし俺のオヤジだったら自分の人生も少しはまともだったのか・・・)
M氏は妄想を振り払うように頭を横に2,3度振った・・・人生に‘もしも’は無いのだから。
(でもそんな事より、もしやり直しが出来れば、あの時、彼はH氏の下で働く事を選んだろうか?)

H元代議士は野心に満ち、政治的嗅覚に優れている人で
初当選後、順風満帆の道を歩み何時しか彼は大物政治家Q氏の懐刀と言われるようになった。
そのQ氏と共に保守系新党を旗揚げしたが、その後は袂を分かち別々の道を歩む事になった。
H元代議士の政治家としての道が険しくなったのはそれからだ。
B氏はH元代議士が保守本流政党議員時代の乗りに乗っている頃に亡くなられているから
今思えば彼は幸せだったと思う。

今回の選挙では他の保守系政党と合併し、選挙戦に臨んだがH元代議士は落選し敗北した。
この合併劇は‘節操が無い’とか‘焦り’とも報じられたが、彼にとっては‘本当に最後の賭け’だったのだ。
これに勝利すればH氏は名実共に大物政治家の一人に数えられたかもしれないが
運命は非情だ。彼の党は瓦解し、彼の引退は必至だったが、まさか
公設秘書選挙違反のオマケ付きで引退とは・・・

M氏はカツオの赤い切り身をボンヤリ眺めながら昔の事を思い出していた。

風雲児のようなH元代議士の下で働くようになってから初めての選挙戦が終って間もない頃、
B氏は何の前ぶれも無く突然、夜中にM氏の自宅を訪れた。
心配するM氏夫妻をよそに「ちょっと選挙に疲れたから暫くの間、お邪魔するよ」と
本人はいたって飄々と振舞っていた。

M氏は仕事中でもB氏の事が気になって定時になれば急いで帰宅したが、当の本人は姿が見えず
心配になって2階の窓から辺りを見渡せば、彼が‘包み’をぶら下げてノンキに歩いてくるのが見えた。
その包みの中身は‘カツオの刺身’・・・こんな日が3日続いたのでM氏の妻は呆れて笑っていた。
夜になれば「何処か(飲み屋に)案内してくれ」と言う。M氏は毎晩繁華街へ連れ出し
普段と変わらない彼の様子に、心配した事が取り越し苦労だったと思うようになったが・・・

ある日、B氏は急に帰ると言い出し、M氏夫妻に「ありがとうな・・・」と小声で礼を言い軽く頭を下げた。
見送る後姿から、これから彼の身に起こる出来事を予感させた。
後に実母からの連絡で彼はそのまま警察へ出頭した事をM氏は知った・・・

(伯父貴、H元代議士は上りカツオだったのかな?下りカツオだったのかな?)
釈放後もH元代議士の下で働ける事が出来たが、以前より生気が少し失っているような印象だった。
何て言うのか・・・旬が過ぎた感じ、と表現すればいいのだろうか?

命日は秋の季節・・・ふっと、多分Bさんは下りカツオが好きだったんだな、漠然と脳裏に浮かんだ。
葬儀に列席していないM氏は、まだB氏のお墓参りに一度も行っていない。
(人生の旬を迎えてから墓参りに行っても遅くは無いさ)と、思ったM氏に
‘おまえは社会主義者だね’と、微かに彼の微笑む声が聞こえた。

  • 2004年02月01日(日)20時15分

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