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「Crimson Season」アルチュール・ランボー 年表 (地獄の一季節)

2002/07/13 ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー 年表 (地獄の一季節)

ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー
1854年10月2日仏蘭西シャルルヴィル市に生まれた。
父は下士官あがりの歩兵大尉、母は地主の娘、この二人は折り合いが悪かった。
一人の兄と二人の妹がいた。

1862年7歳になるとロサ学院に入学、散文を書き始める早熟な子供だった。
1865年10歳でシャルルヴィル高等中学校に入学、翌66年成績抜群のため飛び級した。
1868年13歳には皇太子初聖体拝受に際しラテン語の詩を献上する。
1869年14歳、「中等教育報知」でランボーのラテン語の詩3篇を掲載し、
その中の1篇にアカデミー・コンクール1等賞が授与された。

(1870年15歳)
シャルルヴィル高等中学校に新進教師イザンバールが着任しランボーの詩に大きな刺激を与えることになった。
当時の校長は自宅の書庫を彼に開放し、その将来に期待をかける程の秀才ぶりを発揮していたが
この秀才生は政治、宗教、芸術、家庭、恋愛、法律、すべての既成の秩序に対して反抗し、
絶対の自由を求めようとする恐るべき秀才生だった。
その反面、清らかなものへの、無垢への憧憬が深かった。

所詮、田舎の一中学生が如何に喚いていても現実がどうなるものでもない。
その後の家出と放浪は必然的だった。

この年、普仏戦争が勃発、歴史は新し局面を見せるなか、8月彼は1回目の家出をしてパリに到着した。
しかし、不審者スパイ容疑で逮捕、収監されたが、イザンバール(教師)に頼んで釈放される。

10月2回目の家出、新聞記者になろうとブリュッセルに行き、3週間余り各地を歩いた。
その間に20篇ほどの詩を書き残している。
11月母親の依頼により警察の手で連れ戻されるが戦争のために学校は閉鎖されていた。

(1871年16歳)
2月3回目の家出をしてパリに行く。しかし無一文なので新刊書を読みあさり
3月に徒歩で郷里に帰るが、間もなく彼を狂喜させる大事件が勃発した。

それは3月28日に成立が宣言されたパリ・コミューンだ。
パリ・コミューンは労働者・小市民が中心となって創った自治政府で、世界史上最初の社会主義政権といわれている。
これこそ待望の、既成秩序の破壊であり、新しい社会の到来と喜んだ。

彼がパリ・コミューンに参加したかどうかの証明はされていないが精神的・心情的にはコミューン側にいたことは間違いない。
しかし、ヴェルサイユの国防政府は4月に入るとコミューンに反撃し
5月パリ入城「血の週間」と言われた徹底弾圧により2万人の犠牲者を出しコミューンはあえなく、ついえ去ってしまった。
研究者によれば、もし、ランボーがパリ・コミューンに参加していたとするならば
彼の理想とは、ほど遠い運動の現実に落胆したという。

彼は結局詩人として生きる以外に自分の進む道はないことを悟る。
9月詩人ヴェルレーヌから誘いを受けてパリに行った。

(1872年17歳)
4月ヴェルレーヌの家庭崩壊のため、彼は郷里に戻ったが5月ヴェルレーヌからの懇望で再びパリに出て、その後二人でベルギーに行く。
9月には英国ロンドンに渡り、窮乏生活を送ることとなった。
12月彼は郷里シャルルヴィル市に帰ったが、

(1873年18歳)
1月ヴェルレーヌ病気の報せに再びロンドンに行き4月始めまで滞在する。
5月、一旦ランボーは郷里に戻ったが、24日にヴェルレーヌをベルギーのブイヨンで出迎え
共にまたロンドンへ行き、貧困と口論の生活を送るが
7月4日に喧嘩の末、ヴェルレーヌは彼を残してブリュッセルへ行ってしまった。

ヴェルレーヌの母とランボーはブリュッセルへ行きヴェルレーヌと対面するが、彼は興奮していて自殺を口にしていた。
7月10日、ヴェルレーヌはランボーがパリへ帰ろうとするのを見て、銃でランボーを撃った。
幸い手首を軽傷しただけで済んだが、ヴェルレーヌは逮捕されて、のちに懲役2年の刑を受けモンスの刑務所に収監された。

7月20日失意の中郷里に帰ったランボーは、絶望の中で「地獄の一季節」を8月末に書き上げる。
しかし、10月には印刷所への支払いが出来ず、数部を友人に与えたのみで出版を断念してしまった。

(1874年19歳)
ランボーは知り合ったばかりのジェルマン・ヌーヴォーと英国に渡り仏蘭西語を教えながらロンドンで生活する。
(1875年20歳)
2月ドイツ語習得のためシュトットガルトへ行ったランボーは刑を終えたヴェルレーヌと
再会し「イリュミナシオン」の原稿を託したと推測されている。

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しかし、ランボーが芸術の世界に安住するには、彼はあまりにも冒険家であり過ぎた。
そして現実主義過ぎた。彼は決して夢想家や幻想家ではなかった。
詩・散文は絶対的自由を求める一つの手段に過ぎなかったのだ。
異常なまでの精神的渇き(持て余す才能)に追いたてられるようにその後、彼は詩を放棄してヨーロッパ各地を放浪し、
やがて商人として植民地にその数奇な半生を過ごした。
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(1876年21歳)
ウィーンからオランダに、そしてオランダ植民地義勇兵としてジャワのバタヴィア
77年にはハンブルグ、スウェーデン(スエーデン)、デンマークの各地に
78年にはスイスからジェノア、アレクサンドリア、更に石切り場の現場監督としてキプロス島に
79年の6月には病気になって郷里に戻ったが、友人が文学について彼に問うと
「僕はもう、そんなことは考えていない」と答えたという。

多分、彼は己の活躍出来る場所(精神的な社会)を求めていたと思う。

(1880年25歳)
春、再びキプロス島に渡りエジプトを経て8月にアデンに到着し、皮革とコーヒーの販売を目的とするバルディ商会に就職する。
12月商会のエチオピアのハラル支店に派遣される。
81年退屈し、しきりに探検旅行の事を考え、82年~83年当時は全然人に知られていなかった
オガディーヌ地方を探検し、12月パリの地理学協会に送った。その後、発表されている。

(1886年31歳)
パリでヴォーグ誌が自分の韻文詩と「イリュミナシオン」の大部分を発表したのを全く知らず
彼は数千の銃を50頭のラクダに積み、エチオピア王メネリックに引き渡す為、奥地に出発している。
翌年の87年苦労の末目的地に到着するがメネリック王は正当な代金を支払ってくれず
大損してハラルに、そしてアデンに帰った。
この大遠征の事を英国のランボー研究家が「砂上の楼閣」と評しているが
ランボーが本質的に未知なものに挑む冒険家であって利益を目的とする商人には向いていなかったことがわかる。
現実主義的なランボーの限界が垣間見える、つまり彼の本質は別のところにあるのだ。

こうしてなお数年の間、ランボーは植民地の商人として、およそ文化とか芸術からとはかけ離れた生活を送っていた。

(1891年36歳)
2月突然右脚が痛み出し、それから死ぬまでの約十ヶ月、文字通りの地獄であった。
4月膝にできた腫物の激痛のため、起きる事も眠る事も出来なくなり担架でハラルを出発
5月苦難の旅の末、マルセーユに到着、コンセプシオン病院に入院右脚切断手術
7月郷里に帰るが、やがて病状悪化
8月南の暖かい所へ行けば治るという観念にとらわれたランボーは郷里を出発して
マルセーユに向かったが、言語に絶する苦痛の旅で昏睡状態で再びコンセプシオン病院に担ぎ込まれた。
9月母イザベルにランボーの症状が全く医者から見放されていると、書簡が届く。

10月臨終の秘蹟を受け、生ける屍となってもランボーはアデンのような熱い国へ行く事を切望していた。

11月9日昏睡状態が続くなか、母イザベルの顔さえわかならくなっていたが
薄れてゆく意識の中で南へ向かう船便を問い合わせるための書簡をイザベルに書き取らせた。

(コンセプシオン病院の記録)
ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー 37歳
仏蘭西シャルルヴィル生まれ
商人、マルセーユ通過中、1891年11月10日、午前10時死亡 全身癌腫
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  • 2002年07月13日(土)23時23分

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